按摩(あんま)について
マッサージはオイルやタルクを用い、直接皮膚の上から求心性に刺激を加えるのに対して、按摩は衣服の上から、遠心性の手技を行うことを特徴とします。
その起源は、古代中国の導引按蹻(どういんあんきょう)が渡来し、それが普及し按摩になったといわれています。
古来、日本に体系だったものは無いにしろ自然発生的(本能として)な触手療法や手技療法は存在していたと推測されます。寒い時に皮膚を擦ったり、痛みに押圧を加えたり、現代の我々もちょっとした日常の動作にその要素を見ることができます。もちろん、これが現代のようなスタイルになるまでにはさまざまな変遷を経る訳ですが…。
大宝令(701年)には、按摩博士・按摩師・按摩生の記載があります。養老令(757年)には「按摩生學按摩傷折方及判縛之法。…」(按摩生は按摩傷折の方および判縛の方を学べ。)とあります。その義解については以下ように記載されています。
「…人体の筋肉を按摩し、或は四肢を牽引挙揚して血行を旺ならしめ、又骨折打撲を療治し、瘀血(おけつ)を去るなどのことを学ぶのが按摩生の仕事である。」『註解養老令』より引用
導引や按摩について書かれた書籍は、鍼灸に比べると頗る少ない数しかありません。手技療法は言語化しにくく、手から手に技術が伝えられた事もその一因でしょう。江戸期の代表的な按摩の書には『導引口訣鈔』宮脇忠策(1713年)、『按摩手引』藤林良伯(1801年)、『按腹図解』太田晋斉(1827年)などがあります。いずれも、賤技化した巷間の按摩界に一石を投じ、医療としてまた養生法としての按摩導引の復古を願ったのでしょう。
江戸期には手でもむ揉み療治と、腹部をもみあげる按腹法があったようですが、按腹法は現在あまり行われていません。しかし、この按腹法こそが、按摩の真髄ではないかと考えています。『按腹図解』や『按腹獨稽古』浪華一愚子(1791年)などにも按腹法が詳述されています。
按摩にもいろいろとブームがあるようで、だんだんと曲手の技を競うようになります。曲手とはパタパタ音を出して叩く方法で、袋打・鳴骨・挫手・車手などいろいろな方法があります。これらは差別化の為の一種のパフォーマンスの要素が強いのではないでしょうか。目新しさや派手なしぐさで、宣伝をしたのでしょう。いつの世も世相に流されると、本質を見失ってしまうものです。
中国の文献
漢書芸文志
医療関係の書物は方技略として、医経・経方・房中・神僊の四つに分類されています。『黄帝岐伯按摩十巻』なる書が神僊の部に記載されていますが、亡失しており内容は不明です。神僊とは不老長寿の仙人のことですが、ここでは人を長生せしめる方法と考えられます。書名に按摩の文字を見ることができますが、むしろ運動法や気功などに近いかもしれません。
江戸期の文献
寛政年間に至り伏見に藤林良伯あり、按摩が古の意に違うを歎じ、之を治病の一術として用うるには先ず経絡を正し・臓腑を明らかにするの要あり、その術式の方法的ならざるべからざることを説き『按摩手引き』を著わして其方法を詳述したり。…
次いで大阪に太田晋斉あり、按摩の術に精しきを以て名あり、文政十年『按腹圖解』を著して按摩のことを説きしが、その書によれば「按摩は専ら一元気の畄滞を活発にし・臓腑を安住し・胃腸を調和し・血脉を融通し・骨節を和利し・筋絡を舒暢し・飲食を進め・二便を利し・気力を盛んにする」等の生理的作用ありと説き、之を諸般の疾病、殊に癇及び疝に適用すべきことを唱導したり。『導引口訣鈔』大黒貞勝編著より引用
『按摩手引』
「張介賓曰、按摩は気血を。行らすを要とす。節を緩くし。筋を柔げ心を調和するものは。其病を治すこと。内経にも云えり。
按/此按と云字はおさえる事なり。是を考え見れば瀉術の理を知るなり。
摩/此摩と云字はなでることなり。なでるもいろいろあり、此なでる理をしれば補術に通ずべし。」
「おさえる」ことを瀉法・「なでる」ことを補法としていおり、按摩とは、この補瀉の法によりからだの虚実のバランスを調整して気血の流れを正しくするものです。(気血の滞りにより病は生ずると考えられています)
『按腹図解』
左から、解釈術、利関術、調摩術です。現在の手技方法では、揉揑法、運動法、軽擦法に近い操作法となります。
『人倫訓蒙図彙』
按摩
「醫書におゐて保養の部に比事あり。氣血を通養する補の第一。 」
『守貞漫稿』 喜田川守貞著
按摩
「諸国盲人、これを業とする者多し。あるひは盲目にあらざるものもあり、あるひは得意の招きに応じて行くのみもあり、あるひは路上を呼び巡りて需めに応ずるあり。けだし三都諸国ともに、振り按摩は小笛を吹くを標とす。振りは得意に行かず、路上を巡り、何家にても需めに応ずるを、諸賈またこれに准じて振り売りと云ふに同じ。また京坂ふりあんまは夜陰のみ巡り、江戸は昼夜とも巡る。また江戸には笛を用ひず、詞に、「あんま、はりの療治」と呼び巡るもあり。
小児の按摩は、あるひは「上下揉みて二十四文」なんど呼ぶもあり。江戸は普通上下揉み四十八文なり。また店を開きて客を待ち、市街を巡らず、足力と号して手足をもつて揉む者は、上下揉み百文なり。京坂にはこの足力按摩これなし。また京坂従来、普通上下揉み三十二文、二、三十年来専ら四十八文となる。また三都ともにあるひは上のみ、あるひは下体のみを揉む者は値を半にす。因みに云ふ、盲人は鍼治を兼ねる。足力等は灸治を兼ねる。また別に三都とも灸すゑ所と云ふものあり。大略百灸以上千灸以下を一庸とす。銭二十四文ばかりなり。」
ここでは、上下揉みなるメニューが面白い。現在のクイックマッサージのような部分揉みのスタイルといったところでしょうか。また、足で按摩を行う「足力」もあったようです。東南アジアに行くと足を使ったマッサージを時々見かけますが、現在の日本ではあまり馴染みのない方法かもしれません。
和漢三才図絵
△按凡按摩經絡擦引痃癖之術保養中一事也素問奇恒論云爪苦手毒爲事善傷者可使按積抑痹後漢華佗按摩能活人
経絡を按摩し、痃癖を擦引する術は保養の一事である…
上記のように、江戸期の按摩術の説明は経絡や気血で語られていますが、現在このような視点で按摩を行う人は少ないでしょう。一般的に按摩やマッサージ・指圧などの区別はなく、コリをほぐすことを目的に行われているのが現状でしょう。
醫道重宝記
寿保按摩法
「夫按摩は人虚損して血氣のめぐらざるゆへに病となすなり。人常に手足身體と動揺するときは食物消じやすく血脉めぐり病生ずることなし。 張介賓の云く按摩は氣血を順すを要とす傷を作さんことを欲せず。節を緩して筋を柔げて心を調和するものは其病を治す。しかれども今按摩の流を見も、その利害を知らずして、もつはら手に力を極め人を困め関節をひらき、人の元気を損ず。これ内經の旨、按摩の道理を知らざるゆへなり。後にしるす処の獨已按摩の図解は自身、これを行ふものを以て片土の助とす。」
按摩導引の法
遺精自身按摩の法
遺精不禁を治するには、臥時に身を屈め弓を挽ごとくにして臥。両の膝を臍の所に縮め、あるひは左、あるひは右に側ち臥て、一の手を用て陰嚢をひき、一の手にて丹田を(臍の下二寸五分)覆ひて心を寧じて、静に臥べし。是精を固して洩さず。身を保つ妙術なり。