和本の図版にみる鍼灸の諸相

鍼灸の古典文献で身体(からだ)が描かれているのは経絡図や経穴の位置を示した図などの類で、鍼灸師の姿は肖像画ぐらいかもしれません。当時の人々の暮らし、日常生活が描かれているような資料から、鍼具や手技などについて分かることもあるのでなないかと思い、いくつか資料を探してみました。

石川英輔氏の「実見 江戸の暮らし」の冒頭に次のようなことが書かれています。

特に「ごく普通のこと」を知るのは、とてもむずかしい。江戸時代のように多くの資料が残っている時代でも、資料から実態を読み取るのは難しいのである。(中略)昔の人がわざわざ文章に書いて残すのは、「普通でない」ことが多いからだ。

図版の中の鍼灸師

「人倫訓蒙図彙」の鍼師

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「針師」十四経を考(かんがへ)て浮沈補瀉の術あり。打針撚針管針等品々の流あり。天子の針師をば針博士と号す。

「人倫訓蒙図彙」(じんりんきんもうずい)
元禄3年(1690年)に出版された、著者不明の風俗事典です。上方を中心とする地域の風俗や職業について紹介されています。江戸とは異なる部分があるかもしれません。図の鍼箱には打鍼で用いるような槌が見えます。手技は撚鍼(ひねりばり)で腹部への刺鍼が行われています。

「和漢三才図会」の鍼師

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「鍼毉」(はりたて)

古は砭石をもって鍼とした。黄帝は岐伯に命じて九鍼を制作させた。これがその初めである。また、後晋の皇甫謐(こうほひつ、215-282年)は「甲乙経」および「鍼経」を著し、こうして鍼法は大いに行われた。徐文仲・狄梁公は共に鍼に妙であり(すぐれていた)。およそ鍼には補瀉の法がある。先ず左手でその所を捫摸し、ついで大指の爪を用いてそこを重く按え、切にその穴を搯し、右の手を穴の上に置く。そして補瀉の法を行う。(意訳)

「和漢三才図会」(わかんさんさいずえ)
大坂の医師寺島良安により正徳2年(1712年)に出版された日本の類書です。今でいうところの百科事典のようなものです。
図に描かれている鍼師は鍼を口に咥えているのであろうか。現在であれば衛生上問題ですが、「鍼灸抜萃」の中にも鍼を口にふくみ温針ならしめ云々との記載があります。床に置かれた鍼具は管鍼の管と打鍼の槌のようです。今では打鍼法を使う人は多くはありませんが、当時は一般的な治療方法であったのかもしれません。蛇足ながら、管鍼と打鍼は日本のオリジナルです。鍼術については以下を参照してください。

鍼灸師の髪型

衣装や髪型、装飾品などにより、身分や職業、既婚・未婚を表す風習は世界中の国や民族に見ることができます。

時代劇でお馴染みの月代(さかやき)は、戦国時代に武士が兜をかぶる時、頭が蒸れないように頭頂部の髪を剃り上げたのが始まりとされています(諸説あり)。江戸時代には武士や平民の一般的な髪型でした。月代をしない職業には、僧侶、神官、山伏、公家、医師、学者、浪人者、物乞いなどがあります。

上記「人倫訓蒙図彙」や「人倫訓蒙図彙」に描かれた鍼師はいずれも剃髪です。諸説あるようですが、医師は剃髪が一般的であったようです。

f:id:zhenjiu:20131005125206j:plain 田代三喜『日本医学史綱要1』

f:id:zhenjiu:20131005125513j:plain 曲直瀬道三(杏雨書屋蔵)

f:id:zhenjiu:20131005125639j:plain 杉山和一『日本医学史綱要1』

f:id:zhenjiu:20131005125712j:plain 医師『江戸職人歌合』

f:id:zhenjiu:20131005130337j:plain 後藤艮山『日本医学史綱要1』

石川英輔『大江戸仙花暦』には次のような記載があります。

テレビの時代劇のせいで、江戸の医者は現代の長髪の男のように長くして後頭部に髷を結っているように思っている人が多いが、ああいうヘアスタイルの医師は古方派という流派に限っていて、丸坊主に剃った僧侶のような頭が普通だった。

 確かに後世派の田代三喜や曲直瀬道三は剃髪であり、古方派の後藤艮山は総髪です。江戸の後期には、蘭方医は剃髪ではなく、総髪にしていたようです。藤枝梅安は剃髪、赤ひげ先生は長髪、、。

江戸期に於いて、鍼師の髪型が厳格に決められていたかどうかは定かではありませんが、おそらく医師と同じように剃髪が主流であり、古方派などは総髪であったのでしょう。髪型で流派がわかるというのも、面白いものです。伝統鍼灸を標榜するのであれば、剃髪がカッコいいかもしれません。

お灸に関する図版

「万象妙法集」の灸治

「万象妙法集」は鍼灸の専門書というより、まじないや祈祷などの民間療法を集めたような書物です。景斎英寿著、嘉永3年(1850年)序刊。

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四十を過ぎたら、三里に灸をすべし

外台秘要には「人年三十已上、若不灸三里、令人気上冲目」と記載されています。

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右上には悪魔降伏の秘符とあり、6文字の梵字(ぼんじ)が書いてあります。

「右のごとく書(かき)て門口にはり、又守(まもり)ぶくろにいれ首にかけいるときは万(よろず)の悪事(あくじ)をのぞき、流行(はやり)やまひをうけず、夜山中往来するに、狐狸なんどのさわりをはらひ、吉事をまねく也。」

ステロイドや抗菌薬、抗生物質などのない当時は、疫病やはやり病にかかると死と隣合わせであったことは想像に難くありません。なすすべもなく、神に祈り、祈祷をしたり、疫鬼が家に入らないように護符を門口に貼ったりしたのでしょう。

安政5年(1858年)のコレラの流行では、長崎から江戸まで広がり、その死者の数は3万~4万、文献によっては10万ともいわれています。今から157年前のことです。

「万象妙法集」に記載されてる内容は、荒唐無稽なものも多いですが、当時どのような病が流行っていたのかとか、養生法や予防などの考え方を知る上で興味深い内容です。

流行病を除(のぞく)法には次のような説明がされています。「いろいろの病、時機によりはやる事あり。此とき、にんにくを一つえりの中へぬひこみすべし。はやる病をうける事なし」

にんにくパワーは効果があるような気もしますが、ドラキュラ除けに首からにんにくをぶら下げているようなことと同じであろうか。東洋西洋、共に魔除けにニンニクを使うというのは興味深いです。

月岡芳年の浮世絵、風俗三十二相「あつさう」

話は変わりますが、お灸の絵図で連想される代表的なものは、やはり芳年の「あつさう」ではないでしょうか。

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江戸期に於いては、流行り病で命を落とすことが少なくない状況であったため、病にならないための養生ということが重要なことであったと想像されます。お灸や鍼、あんまなどもその有効な方法であったに違いありません。まさに、「未病を治す」ということですね。

寒さもひとしお身にしみるこの時期こそ、お灸はお勧めです。

鎌倉時代の医師

「職人歌合」は中世に流行した歌会や連歌会にならって、さまざまな職人や職能民が左右に分かれ、番(つがい)となって和歌の優越を競いあう形式で構成されています。現在、4種5作品が知られています。

  • 「東北院職人歌合絵巻(5番本・12番本)」(1214年)
  • 「鶴岡放生会職人歌合」(1261年頃)
  • 「三十二番職人歌合絵巻」(1494年頃)
  • 「七十一番職人歌合」(1500年頃)

内容もさることながら、和歌だけでなく姿絵も描かれていますので、当時の職人の置かれている状況や習俗、衣服や持ち物などを知る上でも参考になります。以前、江戸期の医師は剃髪が一般的で、古方派は総髪をしていたとブログを書きましたが、中世の医師は烏帽子を被るのが主流であったようです。

残念ながら、「職人歌合」の中に針師は登場しませんが、針磨(はりすり)なる職人が描かれています。

「東北院職人歌合」 の医師(くすし)と陰陽師(おんみょうじ)

1214年、九月十三日に京都の東北院で催された念仏会の歌会に習って「東北院職人歌合」は作られたとされています。歌題は月と恋になります。

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 左 医師(くすし)

「むら雲のかかれる月のくすりにはよはの嵐ぞなるべかりける」

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 左 

「君故に心とつけるやせ病あはぬつきめに灸治してみん」

医師と陰陽師が番になっているのが興味深いところではありますが、この当時の典薬寮には医師だけでなく針師や按摩、呪禁師なども置かれていました。処方箋を書いて薬研で薬を調合している様子が上の図からわかります。

医師や陰陽師が恋の歌を詠んでいるのも不思議な感じがしますね。「七十一番職人歌合」では「あはれ我恋の病ぞ薬なきうき名ばかりをたち物にして」と記載されています。この時代から、恋の病につける薬はないという認識があったのでしょうか。思い焦がれて灸で焦がすってところでしょうか、、。

「七十一番職人歌合」 の針磨(はりすり)

「東北院職人歌合」、「鶴岡放生会歌合」、「三十二番職人歌合」と時代を経るごとに職人の人数も増えており、「七十一番職人歌合」には71番、142職種の職人姿絵と画中詞が記載されています。奥書等から判断して、絵は土佐光信、詞書は東坊城和長、画中詞は三条西実隆ではないかといわれています。

歌題は月と恋になります。伝本や写本は幾つもあるようですが「群書類従」から下図は拝借しました。

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針磨は裁縫用の針や鍼術の針も作っていたようです。「こはりはみずが大事に候」とあります。みずとは針孔のことらしいです。図のような手動の火起こし器に似た器具で穴を開けていたのでしょうか。

「月をみは猶ものへりや針かねの長きよとてもいやはねらるる」とありますので、たいへん骨の折れる作業であったことが伺えます。

以前、中国の針製作工場の様子を拝見したことがありましたが、まさに女工哀史のような世界でした。AI化が進むと無くなる仕事が増えると時々話題なりますが、「七十一番職人歌合」に出てくる職人は何をする人なのか分からないものも少なくありません。

※2013/7/20「鍼灸鶏肋ブログ」の記事を加筆修正しています。